弘仁3年の頃に長柄橋は郷土守口市から吹田市垂水神社に向かって架かっていたことに間違いない 風土誌料研究所 所長 松井 淳
其の一其の二其の三
村名 ○石高 明治8年改正○番地反別 明治9年1月現在人口 町村制施工常時の人口 町村制施工常時の反別 大正元年12月末日現在人口 大正9年10月1日国勢調査の人口
守口町 869.9120 19.2.2 1.237 124.1528 1.375 2.071 3.251
三郷村 3,484.3 354.6128 1,852 381.8324 2,017 2,534 2,974
諸提村 1,445.372 168.9702 1,354 191.1216 1,428 2,055 2,173
古宮村 1,565.3610 214.5107 1,942 243.8223 1,943 2,172 2,008
門眞村 3,517.4410 496,9716 2,451 433,4905 2,741 3,045 3,334
二島村 433.6270 136.8117 1,328 158.4901 1.345 1,370 1,331
南郷村 2,773.3600 314.3911 2,757 452.3410 2,961 3,922 3,178
四宮村 3,238.0060 320.5312 2,274 343.2924 2,324 2,478 2,210

第1項 守口町
本町は明治22年4月1日町村制の施工に際し、守口町・土居村のニケ町村に地形民情共に合併するを便とするを似て、其の区域に依りて一町を設け、其の地はもと守口荘と○し、著名なるのみならず、j人家接積して市街の形を◎すに依り守口町と名づけ、◎町村は其の大字となり、◎に依りて茨田郡所属たりしが同二十九年四月一日北河内郡に属す。



大字守口
本地は古来茨田郡に属し、もと守口荘の内にして。後守口市と○す。
○守口荘は小高瀬荘・寺万荘・橋波荘と合わせて五個荘と呼ばれる。
字地に出屋敷・◎島は西北なる淀川の中央なる一孤島にして、一に猿島又は中の島とも呼び、攝津國西成郡南大道・北大道・橋寺三ヶ村の慶地たりしが、明治七年八月四日南大道村所属の反別七◎歩・北大道村所属の同五町五反六畝貮拾五歩貮厘・橋寺村所属の同五反參畝貮拾五歩・計六町壹反七畝貮拾歩貮厘を本地に合併せられたるものなり。
而して本地は京街道に沿ひて市街を◎し、街名に下の町・堤の町・市場の町・濱の町・來迎街等の名を◎し。徳川時代に於ける守口◎のありし所にして、◎舎軒を並べ、飯盛女は晝の支度を◎りしが、明治の後に驛は癒せられて一時寂しくなりしも、近時京阪電車の開通するに及び、大阪の發りて世に賞せらる。

大字橋寺
本地は古来西成郡に属し、上中島の内にあり、上長柄村と呼びしが、後橋寺村と改む、橋寺の名は橋本寺のありしより起りしものならん。
明治七年八月四日字狠島の四反七畝拾九歩、同字の内新田六畝六歩、合計五反参畝貮拾五歩の地は河内國茨田郡守口町に編入せられて本地を去り、同二十九年度より着手せられし淀川改良工事の爲め、拾五町七反壹畝拾六歩の地は買収せられて同川敷となる。
攝津志に依れば、橋本寺は本地にありて◎誓願寺の一名なりとし、且長柄橋は本地より河州橋波村の西に通ぜしものとせるも、長柄橋の址は後に記するが如く大字北長柄より豊島郡垂水庄に至る間なりとも博へ、且北中村大字鎌田の大願時を橋本寺なりとの説ありて、長柄橋のありし所を異にせるのみならず、同橋に因める橋本寺を復た異にせり。
依て思ふに橋は流域の諸所に◎績架せられて一橋たらざりしも、長柄橋を似て◎◎せられ橋の附近にありて橋本寺と呼ばれしも、亦一寺に止まらざりしなるべければ、彼れとは異なれる橋本寺たりしならんか。
本地にありし橋本寺の址なりしといへるは、西南と化せるも、字地に堂の前・誓願寺等の名を存し、時に瓦◎の◎を土中に得ることありといふ。
橋多賀神社は字橋高にあり、大巳貴命を祀れり。
由緒は詳ならず。
明治五年村社に列せられる。
境内は九拾貮坪五合にして、本殿・拝殿を存す。
末社に天照皇神社あり。
氏地は本地なり。
専光寺は字垣内にあり、流前山と號し、眞宗西本願寺末にして阿弥陀仏を本尊とす。
大字天王寺庄専宗寺の信徒智念なるもの、本願寺寂如法王の直弟となり、享保元年正月有志の協力に依りて設立せり。
境内は七拾四坪を有し、本堂兼庫裏を存す。


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幻の地形図
先ず見た事がない
大日本帝國参謀本部測量部
弘仁3年頃の長柄橋は郷土守口から架かっていた事に間違いない

A

B

C
吹田市「郷社」垂水神社

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E

F

G
製作者 松井淳(文化歴史資料館大表)明治29年頃

H

I
明治20年頃地形図

J

K
道中案内図(一)

L

M
道中案内図(二)

N
道中案内図(三)

O

P
道中案内図(四)

Q