其の一
其の一|其の二其の三

長柄橋とは史に長柄架橋について


日本後紀弘仁三年(西暦812年)六月の條に中央政府から派遣された造橋使により工事が行われたとされています。
又長柄の人柱の傳説は所傳が一定しない柳亭種彦の『雅俗随筆』に、その考証があります。
しかし文徳實録では四十年後の仁寿三年は橋が絶えて船渡となっていますが、橋はこの一渡だけではないと考証します。
さて、その橋の場所がどこであったかは、古い資料で説明することもなく、ここだあそこだと押し付けています。
私は古地図、道中図、地名や他の國の言葉、その他を歴史学者の説を聞き此処に確定する者です。
長柄橋は直道からから関目で前方の左の道に別れて右に折れて進むと左側に高瀬郷を見ながら橋波圧に入り直進せず左に折れると此処より進と『モリクチ』橋修理職(橋の守人)頭の館がありすぐ長柄橋になり殿川を渡り橋寺に拝えつし大道を通り大隅宮(応神天皇)を右にあおぎ三國川を渡り吹田を過ぎ垂水(垂水明神)に至るまでの細くて長い陸と橋との接ぎ多い橋だったようです。
何のような仕様が内容であったかまた全体の姿であったかは、古い絵図、古文書などと或ていど全容は推理でき色々な角度において検証することができます。
さて、此の橋を工事した者は百済人で橋番匠と申され橋専門の修理職の職人集団の大工さんであった事が分かっています。
また橋番匠の頭方は百済の人で橋守人と意味から(修理職の頭)その頭の住んでいる所、館の有った所の地名としてモリクチが何時となく定着したと考えられるのではないのかと確信致しております。
また一方で江戸時代に入り大阪城の守り口との表現もそれなりに一理あります。


※ 百済語について(一例)
  日本語 百済語   日本語 百済語
カシラ モーリ 書生 ショセイ ソーサイク
クチ イブ 水晶 スイショウ スーチョク
ウミ パーター チャ チヤー
学校 ガクコウ ハクキヨ 夫婦 フウフ プーフ
明治18年の淀川界隈 明治42年
昭和2年 ほぼ現在の形となりました

 この時代には長柄橋跡が見てとれます。
宝暦3年(1753)京師書生 森謹斎安珍重著
其の二では『雅俗随筆』について解説の予定です。

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