其の二
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柳亭種彦の「雅俗随筆」より


(一)長柄の人生

秋の陽はもう西に傾いた。難波の入江は金色に輝き、川辺の葦は風にそよぐ。
三国川は相も変わらず、渦を巻いて流れている。赤とんぼが飛ぶ。人日とは三々五々歌いながら帰っていった。
猪名部工は、流れの上に組んだ足場に腰を下ろして先刻からじっとその渦を見つめている。
「今日も空しく暮れてしまった。」
そう思うと、立ってもいてもいられなくなった。
「こんなに、色々やって見ても、橋杭が納まらなけりゃ仕方がない。俺も諦めた。なあに、俺だけじゃない。
 飛騨の衆、阿波の衆、それから備前の衆、日本国中の橋番匠がみんな匙を投げたんだ。」
そうした独り言を言って、彼は力なく立ち上がった。
辺りはもうとっぷり暮れていた。遥か彼方、夕もやの中に潤んで見えるのは、長柄豊崎ノ宮の灯であろう。
月はまだ出ていないが生駒の山の嶺は、ほんのりと明るい。虫が鳴く。
「でも、残念だなあ。」
彼はまた太い溜息を洩らした。
タタタタ・・・・・滝が落ちる。
その滝で猪名部工は水垢離をとった。そうして、身も心も洗い清めてから静かに石段を登る。
登りつめると、垂水明神である。お庭の白砂に松の陰。月は天心に澄む。と鈴の音が冴え渡った。
彼は神前に額づいたまま、ちっとも動かない。何か一心不乱に祈っている。
タタタタ・・・・・滝の音が全山に満ちる。
その滝の音に紛れもよらず、何処からともなく、細かい細かい歌声が流れてきた。
「家の根固めは心で締めろ、杭の動きは人柱。杭の動きは―人柱!」
彼はハッとした。悩ましい一夜は明けた。空は隈なく晴れて爽涼の気が動く。
雉子畷の翠の松の根かたに紫の幔幕が張られている。
豊崎ノ宮の修理職、百済介が今日は往来の人を待ち止めて、橋杭の納め方を、尋ね出そうとするのである。
帝には餘程の御焦慮と拜される。
猪名部工は、昨夜の事を、修理職の耳へ入れておこうかと思ったが、萬策つきてからの事にしようと思い、返して、黙って、控えていた。
丹波の人、播磨の人、豊島の人々が次から次へと来る。けれども、誰も知る者がなかった。
百済介もがっかりした様子である。ところが、多分八ツ頃であろう。
地下の垂水の里に住む長者、岩氏と言う人がやって来た。彼は笑いながら言った。
「そりゃきっと龍神のお怒りですよ。お怒りさえ鎮めれば、橋杭は譯なく納まりましょう。え?どうしてと仰言うのですか。
 それは何でも無い事です。人柱を立てるのです。」
猪名部工はギクっとした。
「ほほう。人柱かね。だが、誰を人柱にするのだい。」
百済介も微笑みながら言った。
「そうですね。袴のマチにつぎのある男、それにでもすれば如何です。」
岩氏は何気なく、そんな事を言った。皆の者はびっくりして、銘々の袴を改めた。が、誰のマチにもつぎは無かった。
それなのに、岩氏自身の袴には、それがちゃんとあったのだ。
猪名部工は百済介に昨夜の事を囁いた。百済介は大きく頷いた。岩氏は真っ青になって、その場に倒れて了った。
空は曇って来た。時雨が来そうだ。

石走る垂水の上の早蕨の萌え出づる春になりにけるかも

長柄の橋は美しく出来上がった。中島の橋本から、垂水の橋本まで三国川を虹と跨いだ新橋を、鳳輦の声々が充ち溢れた。
日本一の橋番匠、猪名部工は、帝の恩賞に感涙した。けれども哀な犠牲者、岩氏の事を思うと、名声の中に、晏如たる事が出来なかった。
そこで、彼は、中島の橋本に、寺を建立して
誓願寺と名づけ、懇に岩氏の菩提を弔った。
岩氏の娘、光照前は、河内の国禁野の里の長者某に嫁いだ。ところが、彼女は一言も物を言わなかった。
物を言い過ぎて、不慮の災いを招いた父の事を思うと、物を言うことが恐ろしくなったのであろう。
夫は悲しみのあまり、彼女を輿に乗せて、親里へ送りつけた。
その途中の松林で、雉子が鳴いていた。馬上の夫はすぐに弓を取って、その雉子を射落とした。
その時、輿の中で妻がなよやかに歌い出した。

物言えば父は長柄の人生雉子も鳴かずば射られざらまし

夫は驚いた。そして妻がオシではなかった事を知って、躍り上がる程喜んだ。それから彼等二人は、幸福にその一生を終わった。

(二)長柄

長柄は長柄橋で有名であった。奈良朝以前からかけられていたので平安朝時代の初頃には、もう朽ちて修繕もされずにあった。
そこでいつも古いものの例えに引き出されていたらしい。今の長柄橋の所よりは少し違う場所にかかっていた。

世の中に古りぬものは津の国の長柄の橋とわれとなりけり

(訳)
この世の中で、古くなったものは摂津の国の長柄橋と自分とであるよ。
これは老人の感懐であるらしい。
「自分の身はもはや老い衰えて見る影もなく、世の人達も一人として相手になってくれる者はいない。日々さびしい思いに沈みながら、若かった日のことどもを思い出して僅にその心を慰めている。」
こうしたさびしい自分を橋と比べて詠んだのがこの歌である。

蘆間より見ゆる長柄の橋柱むかしの跡のしるべなりけり

(訳)
長柄川の川端一面には蘆が生い茂っていて、その間から朽ち果てた橋杭の残っているのが見える。
あの橋杭は噂に聞くあの有名な長柄橋のかかっていた跡を知らせるよ。
これは長柄川の堤の上で詠んだ歌のように思われるが、事実は京都にいて、その様子を想像して詠んだものである。
これを以てみても、長柄の橋がどんなに有名で、都の人達の耳にまで入っていたかが知られるだろう。


拡大図→
(古地図) 摂州圖 康正三年六月
 →拡大図  
この地図が長柄橋について最も重要且つ要点を示す地図
であると考えております。

@上辻堂
A橋本
の地名が書かれており、
Bに、「此所 長柄橋ノ跡」 と明記されております。
日本志 攝州榎並郡縣部河州八個 丙荘之地図 並近庄附 宝暦四年 摂州大阪高津臺北宇木堂 皇都京高辻書生 森謹斎幸安模校図弁識
大阪御番所 鈴木飛騨守様江 河州鞆呂木庄 (御取次川方御与力永田宮兵衛殿) 大阪御番所 差上致し候
浪速古地図A 年代不明
浪速古地図@ 年代不明
其の三は随時発表予定です。お楽しみに。

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